梅風呂

2010年04月27日

ロバート・マキャモン『少年時代』


少年時代〈上〉 (ヴィレッジブックス)


ロバート・R・マキャモン著、二宮磬訳『少年時代』読了。書店で仕分けをするとしたら、この本はミステリーの棚に置かれることになると思う。けれども、単なる謎解きものの枠には収まらない、笑いあり涙あり感動ありの素晴らしい作品だった。
時は1964年、舞台はアメリカ南部にある人口1,500人あまりの町ゼファー。物語の主人公は、この小さな町に暮らす空想好きの少年、コーリー・マッケンソンである。彼には親友が三人いる。物語の中で、コーリーはこの三人と共に、川に潜む怪獣と遭遇し、ロスト・ワールドから来た恐竜を解き放ち、ギャングに追い回され、火星人の襲来におびえ、不良少年たちと対決する。また、この冒険に満ちた一年をとおして、コーリーは恋を知り、愛するものを失う悲しみを味わい、家族の力を確かめ、書くことの喜びを知る。
こうしたコーリーの青春を物語の縦糸とするならば、横糸は、湖で起きたおぞましい殺人事件である。ある朝、コーリーは殺された男の乗った車が湖に沈むのを父と共に目撃してしまう。果たして男は何者なのか。誰がその男を殺したのか。犯人はゼファーにいるのか。この事件がコーリーたち家族の生活に暗い影を落とすようになる。
少年の成長物語と陰鬱なミステリーが一つになった、極上のエンタテイメント。少年の心を忘れていない人ならきっと楽しめる、素敵な作品です。
posted by うめ at 22:25| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米の本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月25日

野辺へ出てまいりますと春先のことで

先日、仕事のスケジュールがぽっかり空いてしまったので、神戸まで出かけてきた。目的地は「堀文子 いつくしむ命」展が開催されている御影の香雪美術館。
香雪美術館は山手の閑静な住宅街にあった。敷地の日本庭園に足を踏み入れると、外の世界とは違う時間が流れていることに気付く。春の穏やかな日差しの下、遅咲きの八重桜が苔生した地面に音もなく散り敷いていて、海手にある現代的な巨大美術館とはまた違った非日常を楽しむことができた。
展覧会自体も美術館の規模相応にこじんまりとしていたが、1950年代から最近までの作品がひととおり揃えられており、画風の変遷を大まかに掴むことができた。若い頃は、半殺しの鶏を束ねて売り歩くメキシコの老婆を描いた作品など、生き死にの問題に真っ向から挑んだような大作が多いものの、後年はそういった気負いは影を潜め、素材も身近にある小さな動植物へと移っていく。こうした素材への眼差しの優しさが印象に残った。白眉はミジンコを描いた作品。描かれているのは目で捉えることができないほど小さい生き物なのに、その透明な体の中の組織は重なり合ういくつもの銀河のように見えた。


香雪美術館
神戸市東灘区御影郡家2-12-1
会期:2010年3月21日(日)〜5月5日(水)
休館日:会期中無休
開館時間:10:00〜17:00
posted by うめ at 22:34| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月24日

ナム・リー『ボート』


ボート (新潮クレスト・ブックス)


あちこちの書評で取り上げられていた、ナム・リー著、小川高義訳『ボート』読了。新刊翻訳本を読むのは本当に久しぶりだ。新刊翻訳本の道標として重宝していたすみ&にえさんのHPが更新されなくなってからこちら、新刊本を追いかけるのがどうも面倒くさくなってしまって、あらかた評価の定まったものばかりを読んでいた。

この書き手は本物だ、というのが最初の数編を読んでの感想。この作品を語るうえで作者の経歴は切っても切り離せないものなので、英語版 Wikipedia から一部抜粋して訳したものをメモ代わりに載せておく。

「ナム・リー (1978 〜) はベトナム生まれのオーストラリア人作家である。生後数ヶ月で両親と共にボート難民としてベトナムからオーストラリアに渡った。企業弁護士として働いていたが、文筆業への転向を決め、2004 年に米国はアイオワ大学の作家養成ワークショップに参加する。処女短編は 2006 年に Zoetrope 誌上で発表された。オーストラリア ABC ラジオのインタビューで、彼は法律から文筆業への鞍替えの理由として、読書への愛を挙げている。
「私は読書を愛していました。だからなぜ作家になる決意をしたのかとおっしゃられるなら、まさにそれが理由です。私は読書家で、読書で出会ったあれこれにすっかり夢中になっていたので、『これより素敵なものなんてあるんだろうか』などと考えていました。この気持ちを他の人たちにも味わってもらえるよう努力すること以上に、有意義な時間の使い方があるでしょうか」
同じインタビューの中で、彼は初めて書いたのは詩だと明かしている。
彼は 2008 年にオーストラリアに戻ったが、イギリスに移ってイーストアングリア大学でライティング・フェローシップ (特別研究員のようなものか) を受けている。
インスピレーションの源は何かと問われた彼は、2008 年にこう答えている。「私の最大のインスピレーションの源は、両親による選択と犠牲です。これには未だに驚かされます」

『停電の夜に』で知られるジュンパ・ラヒリなど、いわゆるエスニック系作家は自らのバックグラウンドを前面に出した作品を書くことが多いが、ナム・リーにとっては、エスニシティはあくまで素材のひとつに過ぎない。最初の短編『愛と名誉と憐れみと誇りと同情と犠牲』に彼のこうした姿勢が如実に表れている。この短編を、作家生活をスタートさせた若き作家ナム・リーの所信表明として読むと面白い。
posted by うめ at 00:15| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米の本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月13日

2009年に観たもの、聴いたもの、読んだもの

@「Wicked」
中毒としか言いようがない。歌詞カード片手に CD を聞き込んだり、Youtube で役者ごとのパフォーマンスを見比べたり。もちろん劇場にも足を運んだ。大阪での開幕 2 日目に大勢で観に行けたのは良い思い出。そして何より、Gershwin Theatre の最前列で観たパフォーマンスは最高だった。今思い出しても鳥肌が立つ。

A須賀敦子
2008 年に引き続き、須賀さんのエッセイや翻訳を読み進めた。なかでも良かったのは、須賀さんが訳したナタリア・ギンズブルグの『モンテ・フェルモの丘の家』。池沢夏樹の世界文学全集に収められている。全編とおして書簡形式になっていて、「ジュゼッペからルクレツィアへ」、「エジストからジュゼッペへ」、「アリビーナからエジストへ」というぐあいに、かつてモンテ・フェルモの丘の家に集った仲間たちの間で手紙がやり取りされる。登場人物、つまり手紙の書き手は 10 名あまり。読み進めるうちに、蜘蛛の巣のように複雑な人間関係が浮かび上がってくるしかけになっている。昔言えなかったこと。手紙の中でさえ吐いてしまう嘘。時の経過と共に変わってしまったお互いの関係。須賀さんの訳文は、「かつてそこにあったけれども、今はもうない」といった類の悲しみをよく表現している。
須賀さんが訳したアントニオ・タブッキの作品もいくつか読んだ。特に気に入ったのは『インド夜想曲』。貧者のための病院やスラムといった、物語を支える "インド的事物" のイメージの鮮烈さといったらない。都会の騒音やすえた汗の臭いがページの間から立ち上ってくるよう。須賀さんの翻訳の中には、彼女の試みが失敗しているのではと思わせるものもあるのだけれど、この 2 作は翻訳の力が原作自体の魅力をいっそう引き立たせている。

B小玉ユキ『坂道のアポロン』
2009 年に読んだ漫画の中で、間違いなくナンバーワン。女の子から見た男の子たちの青春といった風。帯の「どこまでも王道の少女漫画でありながら、二人の友情はすぐれて少年漫画的、希有な両立がここにはある」という表現は言い得て妙だ。60年代、長崎、バンカラ、ジャズ、初恋、といったキーワードにピンと来る人に是非手にとってもらいたい。

C「ママさんバレーでつかまえて」
秋から冬にかけて放映された NHK のシットコム。ウィキペディアによると、「芝居の稽古から数日後に収録を行い、本番は通常のドラマとは違いノンストップで収録される。舞台の様に最後まで演じきる様子を撮影し放送。また、最終回は、NHKのドラマとしては1950〜60年代のテレビ草創期以来、半世紀ぶりの試みとなる生放送で行われた。」とのこと。ノンストップで演じられるうえ、観客の笑い声も入るため、本当に舞台を見ているようだった。特に最終回は生放送だったので、役者さんがちょっと噛んだりすると、「緊張で台詞がとんだりしたら、全国数百万の視聴者が目撃することに!」などとハラハラしどおし。ともあれ、40分もの長丁場を演じきった役者さんたちに拍手を送りたい。DVDを買おうかどうか迷っている。

Dオディロン・ルドン
姫路市立美術館で開かれた「オディロン・ルドン展」を見に行って、一目で好きになった。オディロン・ルドンは 19 世紀から 20 世紀初頭にかけて活躍したフランスの画家、版画家。美術史的にいうと印象派に属するが、同時代の画家たちとは作風を異にしている。著名なモネやセザンヌ、ルノワールらが目に見えるものを題材として選び、光の表現を追求したのに対し、ルドンは目に見えないもの、光の届かない暗がりや人の心に潜むものを好んで描いた。長い足をはやしたまっくろくろすけのような「蜘蛛」や、気球の風船の部分が大きな目玉になっている「眼は奇妙な気球のように無限に向かう」なんかは、どういうわけか親近感がわくんだよな。
若い頃にはこうした白黒の恐ろしげな作品を数多く描いたルドンだが、50歳を過ぎた頃から、色彩豊かな花の絵を描くようになる。このあたりの変化も面白い。
日本では岐阜県美術館がルドン作品の収集にあたっているようだ。機会があれば行ってみたい。

Eアーシュラ・ル・グィン『Power』
『Gifts (ギフト)』、『Voices (ヴォイス)』に続く、「The Chronicles of the Western Shore (西のはての年代記)」シリーズの最終巻。主人公 Gavir と一緒に旅をし、詩をよみ、別れを経験して・・・まるで自分が Gavir の人生を生き直しているような気持ちにさせてくれる、最高の作品だった。70 を超えてなおこれほど素晴らしい物語を作り続けてくれているル・グィンに感謝したい。こういう作品なのだ、僕が訳してみたいのは。
奇異な力を持つ奴隷の少年 Gavir が、自分のルーツや居場所を求めて、"西の果て" にあるさまざまな形態の社会を歴訪する、というのがこの物語の大筋。Gavir が天から与えられた力 (gift) は考えようによってはとても便利な力なのだが、それを駆使して危機を乗り越えたり、人々の命を救ったりするわけではない。『Power』は、「みなしごの少年が天から与えられた魔法の力を駆使して、悪い奴らをバッタバッタとなぎ倒す」系の単純なシンデレラ ストーリーではないのだ。そういえば、ジブリの映画版ゲド戦記に対し、Le Guin は「The darkness within us can't be done away with by swinging a magic sword (わたしたちの心の闇は、魔法の剣の一振りで追い払えるようなものではないのです)」とコメントしているが、この哲学が『Power』にも活かされていると言っていい。

前作、前々作とのつながりはそれほど強くないものの、『Gifts』に登場した Orec や Gry、『Voices』の主人公 Memer も成長した姿で登場し、ファンを喜ばせてくれる。これで完結とのことだが、願わくは続編の書かれんことを。
posted by うめ at 20:49| 東京 🌁| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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